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【2020年3月20日追記】中日新聞に記事が掲載されました!
- 中日新聞様に取材をいただき、2020年3月13日(金)新聞に記事が掲載されました!
ぜひご一読ください。 -
- 〈2020年3月13日(金)中日新聞朝刊市民版〉(中日新聞様に了承いただき掲出)
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自分史の題は『峠越えの道』
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- 青木建築(株)の事務所にて著書を持つ青木さんと妻の禮子さん。
- プロジェクトの編集担当 田中真事(名古屋市、69歳、ライター)
自分史の題は『峠越えの道』。著者は、名古屋市にお住まいの青木昭男さんです。この本を全国の図書館100館に寄贈したい。できるだけ多くの人に読んでもらいたい。青木さんの生き方や文章の豊かさに感動したメンバー3人でプロジェクトを立ち上げました。 -
奥三河の山村で育った軍国少年青木昭男さんは、終戦後15歳で大工の小僧として上京。働きながら夜間高校で建築を学びました。子どもの頃から目が悪く「目が悪いお前には大工なんか無理だ」と言われながら苦労を重ね、ついに独立、名古屋で建築会社を興します。そんな涙と笑いの80余年を書くために青木さんは、視覚障害にもめげずパソコンを習いました。そして足かけ4年で自分史を書き上げました。
この本を通じて、逆境の中、目の前の一つひとつを懸命に切り拓いてきた人生があることを日本中の人に知ってもらいたい。子供達には、夢を持つこと、仕事に打ちこむことのすばらしさを知ってもらいたいと思います。 -
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【著者からのメッセージ】
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「峠越えの道」を図書館に寄贈するプロジェクトを立ち上げていただけるなんて夢にも思いませんでした。本当にありがとうございます。
わたしが名古屋に移り住んだきっかけは、60年前の伊勢湾台風です。東京で名前の知れた大きな現場で墨出し大工をしていたのに、ひょんなことから台風被害に遭った名古屋で、ヘドロにまみれて民家の補修工事に取り組むことになりました。
お客さんからいただく「ありがとう」の一言やお客さんと相談しながら進める仕事に、たまらない嬉しさを感じたことを覚えています。そうして水害にやられた土地に住みついて、小さな小さな仕事を続けてきました。
何とか仕事が軌道に乗ったら、今度は眼の障害がひどくなりました。方々の眼科医を回りましたが、結果ははかばかしくなく、引きこもりになりました。
何年かして、名古屋市のリハビリセンターでパソコンに出会いました。文字が少し打てるようになったら、ストーリーのないつまらない教材よりも、暗い眼の裏に浮かぶ昔の思い出が書いて見たくなりました。それがこの自分史を書きはじめたきっかけでした。
拙い文章ですが、少しでも多くの図書館で、一人でも多くの方に手にとっていただけたら、こんな嬉しいことはありません。ご支援をよろしくお願いいたします。
青木 昭男 -
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【プロジェクトメンバー】
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- 青木さんの自分史を世に送り出したい。プロジェクトメンバーは、そのサポートを続けてきた編集担当の田中真事と、装丁担当の加藤紀道、校閲担当の池上朋子の三名です。
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- 【プロジェクトメンバーからひと言】
● 装丁担当の加藤紀道(名古屋市、52歳、アートディレクター)
この作品の表紙の装丁をやらせていただいたBORDERS,Incの加藤です。感性豊かな文章表現に溢れたこの本がクラウドファンディングによって世の中に出ていく。そのプロジェクトのお手伝いができたのは、わたしにとってとても幸せなことでした。
● 校閲・ディレクション担当の池上朋子(名古屋市、クリエイティブディレクター)
78歳で初めてのパソコン、自分史!
目が悪くても歳を重ねても、新しいことに挑戦する青木さんのその姿勢がスゴイ! でも、かと言ってこれは、障害をモノともしない聖人君子の話ではありません。目のことで、クヨクヨしたり、毒づいたりもする青木さんのその時々が、本当に素直な心で書かれていて、わたしはそこに心を掴まれました。
障害のありなしの壁を越えて、読む人を元気づけてくれるこの本が、多くの人の目に触れることを願っています。 -
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プロジェクトに共感する方に、一足先に読んでいただきました。
- ● YNさん(東京都足立区、35歳、会社員)
重くて暗い話かと思ってました。。。
困難を乗り越え、乗り越え…!!の大変な苦難と受難の道のりを描いた暗めの話かと思っていましたが、サラリと書いてあって読みやすかったです。とても正直に書いてあるのもよかった。ひとことで言うと、主人公は努力の人、というのがよく伝わってきました。家族を大事にするところも素敵。
● YTさん(名古屋市、65歳、主婦)
素人の自分史とは思えません。読みごたえがありました。
大工さんなんて目が悪いとできない仕事なのに、それを失敗しながら工夫を凝らしてやり通したたくましさがとてもいいです。障害者としてでなく、ひとりの人間としてのめげない生き方がユーモアを交えて描かれている。だから、図書館に寄贈するのは大賛成です。もちろん目の悪い方のために点字や音訳で読めるようになるといいですね。
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【作品チラ読み】
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- かいつまんで三ヶ所お読みいただきます。(実際の本文は縦組みです)
① 本文77頁あたり----青木少年が、中学卒業と同時に故郷(奥三河の稲武町)を離れ、大工修業のため上京するシーンです。
旅立ちの日は、朝七時頃家を出た。家の外でキラ公ことアキラ君が待っていた。「一緒に豊橋まで行こう」アキラ君は、岡崎の近くにある新光レイヨン(今の三菱レイヨン)の幸田(こうた)工場に勤めることになっていた。もう少し後に笹平(ささだいら)を離れる予定だったが、どうせ故郷を離れるのだから一緒に行こう、と日にちを繰り上げたと言う。
お袋は、送っていくと言って、わたしの荷物を帯で背負って付いてくる。峠にさしかかる。峠の道は北と南では全く表情が違う。登ってきた北側は路面の状態も悪いし、道も急だ。景色も、南はのどかだが北はどこか厳しい。村には「人を送っていくのも峠まで」が無言の決まりのようなところがある。峠を登り切って「ありがとう。もういいよ」と荷物に手を掛けても、お袋は黙って首を横に振るだけで、引き返す気配はない。三人は黙ったまま峠の道を降りていった。
バスの発着駅は笹平の集落から約一里、稲橋小学校の前にあった。三人は黙ったままベンチに座ってバスを待っていた。三河田口行きのバスに乗り込むとき、荷物を渡しながらお袋が口を開いた。「皆さんのなぁ、言うことを良く聞いてなぁ、可愛がられるんだよ」
アキラ君と二人で三河田口駅へ。田口線に乗り、終点の本長篠で飯田線に乗り換えて豊橋まで出た。そこでアキラ君と別れた。わたしは東海道線の上りで東京へ。アキラ君は下りで、幸田(こうた)へ。
わたしとアキラ君そして操君の、笹平集落の同級生三人組のうち、操君は農家の長男だったので家に残った。三人は、まだ羽も乾き切らない、脱皮したばかりのトンボのように、それぞれの進路へと頼りなげに飛び立った。
惜別の 峠まで来て 振り返る 見慣れた山の しわくちゃの顔
【自らが創業した青木建築(株)の前に立つ青木さん。(近影)】 -
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- ② 本文125頁あたり----青木少年は、夜間高校の建築科に通いながら貞さんのもとで大工修業に励みました。卒業を控え貞さんと別れることになりました。 貞さんが金町(かなまち)の飯場を出た。卒業を間近にした高校四年生の頃だった。鈴木建設の仕事がほぼ終わって、飯場を縮小する時期にきていたのだろう。貞さんは、勇さんの飯場に移ることになった。わたしは、貞さんの大工道具を担いで金町駅まで送っていった。道々涙がぽろぽろ出た。「なんで泣く」と聞かれたが、よくわからなかった。
貞さんと離れてからは兄弟子の内藤さんの下についた。いやでたまらなかった。仕事は一人前とはいかないまでも、貞さんのおかげで一通りはできるようになったし、監督さんや職人さんともコミュニケーションが取れるようになった。
そんな中で、何かとあわただしく卒業の時期を迎え、卒業設計を進めた。当然、高校の授業だけでは描けない。家には机も製図版もないから、畳の上に小さな箱を置き、その上にベニヤを載せて這いつくばるようにして製図した。内藤さんと一緒の狭い部屋では、製図など思うようにできない。
わたしは、一年留年して卒業設計をやり直そうと思った。でも学校は、留年を認めないと言う。親方も「とんでもない。一日も早く仕事に専念してもらわなくては駄目だ」と言う。
あの頃、学校へ行く気にもなれずに、通学途上で途中下車して上野の山に登り、街の光や電車が走るのを眺めていた。学校へ行かなくなった夜を、内藤さんと顔を付き合わせているなど考えられなかった。
前にも書いたが、内藤さんからは「お前のような目が悪い男に大工は無理だ。早く辞めろ」と何度も言われた。でも、辞めたら食べていけない。だから辞める訳にいかなかった。目がいい大工なら、こうやってやればいい、と見てすぐにわかるところをどうやればいいか、いろいろ工夫した。たとえば、長い板がまっすぐかどうか、見てもわからないから、両端に糸を張って手で確かめていく。だから時間と手間がかかった。
【名古屋市天白区にある青木建築(株)。事務所と作業場を兼ねています。】 -
- ③ 本文135頁あたり----上京して5年。20歳の頃、建築現場で腕を脱臼し、働けなくなってしまいました。親方や女将さんに気兼ねした青木青年は一計を案じます。
ケガから二、三日は、皆が仕事に出た後を見計らって親方の家に朝食に行った。女将さんは、普段通り明るく迎えてくれたが、タダ飯を食べているようで気が重かった。それまでは真っ先に食べていたのに、臆病な猫のようにこそこそ入っていった。夜はまた、皆の顔色をうかがいながら食べなくてはならない。悪くすると田舎に帰らされるかもしれない。飯場は、働けない職人は居られないところだし、ましてわたしは、親方の家を勝手に飛び出した人間なのだ。これから毎日こんな嫌な思いをしなくてはならないのか。
自炊を始めよう、と思いついた。でも肝心のご飯はどうやって炊くのだろう。そうだ、キャンプで使う飯盒だ。古道具屋に行った。「その手はどうした」と三角巾で吊ったわたしの右腕を見ながら店主が聞いた。「ケガをしました」「それぐらいは見ればわかる。そんなケガをした者が、何で飯盒がいるのかと聞いているのだ」
どうやら怒られているようだ。事情を話した。「ケガをしたらご飯を食べさせてもらえないのか」「いいえ、そんなことありませんが、退屈だし一度やってみたくて」「そうか。それなら良い物がある」
奥から店主が持ってきたのは、錆びた鍋だった。怪訝そうに見つめているわたしに店主は言った。「これは鉄骨の職人が造った芋を焼く鍋だ」直径十五センチぐらいの鋼管を長さ十二センチぐらいに切って、底に厚さ一センチぐらいの鉄板を溶接してある。
店主は、ご飯の炊きかたから芋の焼きかた、魚の焼きかたや野菜の蒸しかたまで丁寧に教えてくれた。「この鍋に蓋があったら言うことはないが、お前は大工だと言っただろう。蓋だけは自分で作れ」 -
【本の体裁】
- A5サイズ 本文237頁
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【目標金額に達したら】
- 名古屋市立の全図書館21館を始め、東海地方を中心に、全国の図書館から100館を選んで、各一冊ずつ寄贈します。目標金額の30万円を超えてご支援をいただけた場合は、その金額に応じて寄贈する図書館を増やしていきます。
【目標金額に達しなくても】
名古屋市立の全図書館21館に各一冊ずつ寄贈します。名古屋市図書館さんも受け入れを約束していただいています。 -
【巻末にお名前を掲載します】
- チケットを購入していただいた方全員のお名前とお住い(市区郡まで)を巻末に掲載します。ご購入手続きの際に、アンケート画面が掲出されますので、指示に従いご入力をお願いいたします。